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この世界のすべては、雑音で出来ている。

オープンワールド その2

例えば「ドラゴンクエスト」においては、世界はそっけない「記号」で構成されていた。
街も城も、森も山も、すれ違う人々も、全てひとマスのドット絵。味気ないが、快適でもある。お城から隣の街への移動は、ものの数秒もあれば足りるのだ。今日のゲームと比べると何もかもがシンプルで、単純だった。
もっとも、こうした単純さは「リアル」の対極にある。現実と同じような世界を思うがままに駆け回る−そうした経験からは、大きな隔たりがあるのだ。
当時においても、攻略の手順が特に限定されておらず、ある程度自由に世界を探索できるゲームがなかったわけではない。「ドラゴンクエスト」自体、必ずしも決まった手順を踏む必要はなかった。いきなりメルキドドムドーラに行くこともできたし、ストーリーそっちのけで洞窟にこもっていてもよかった。
けれども、記号の組み合わせに過ぎない世界の「自由」には、自ずと限界がある。
ゲーム中のあらゆる存在には、極めて限定的な「意味」しか与えられておらず、プレイヤーは数少ない選択肢の中でしか行動することはできなかった。
森や山は、単なる背景であるか、そうでなければ、例えばプレイヤーの通行を妨げる障害物といった、単純な意味を与えられているだけの存在だった。森の木々に登ってみたり、山でキノコを採ったりすることは、プレイヤーの行動の選択肢としてー許可された「コマンド」としてー特別に用意されている場合にのみ可能であり、自由には行えるわけではない。それが、現実の世界ではたやすくなし得ることであったとしても。
これはどう見ても「リアル」でない。我々の暮らす世界と違いすぎる。現実というものは、もっと遥かに多様で数えきれない選択肢が広がっているのだから。
もちろん、ゲームが現実と違うことは分かっていた。
と同時に、こんな風に問いかけてもいた。
−そんなゲームがいつか可能になるのだろうか?
現実と同じ広がりを持った虚構の世界を旅する、そんなことが出来るゲームが?
このかつての夢は、厳密には未だ実現してはいないのかも知れない。しかし、それに大きく近づけてくれたゲームなら、この10年ほどの間にいくつか登場したように思える。