no is e

この世界のすべては、雑音で出来ている。

金属とガラス

去年の秋、川崎でやっていたイベントで久しぶりに「サスペリア」を観た時、かなり細かい部分まで覚えていたことに驚いた。最後に観たのは学生の頃だから、20年とか、そのくらい昔のはずだ。

つい最近に観た映画であっても、割とよく忘れる。「X MEN アポカリプス」などは、去年アマプラか何かで観たのを忘れてもう一回レンタルし、途中まで気づかなかった。まあ、ストーリーは覚えていなくても、断片的なシーンは記憶に残っていて、それで思い出したのだが。

サスペリア」もストーリーなどはあってないようなものだが、個々のシーンはよく覚えている。覚えているシーンは印象に残っているシーンであり、印象に残っているシーンとは、要するに自分の好きなシーンである。改めて思ったのだが、自分はこの悪趣味でスタイリッシュな映画がとても好きなのだった。

冒頭、スージー・バニヨンが空港に降り立つシーンから始まる。空港から出る時、開閉する自動ドアがアップになるのだが、ここは初めて観た時から何度も反芻したほど鮮明に記憶に焼き付いている。

自動ドアの、ガラスと金属の質感が凶々しいのだ。

この一瞬のシーンが、「サスペリア」という映画においてこの後起こることの全てを予告している。それは、ガラスや金属に対して人が生理的に抱く、抽象的な嫌悪感や恐怖感の具現化だ。

冒頭から、悪趣味で執拗な斬殺シーンの連続である。心臓にしつこく突き刺されるナイフが大写しになり、哀れな犠牲者の顔面に落下してきたガラスが突き刺さる。おぞましいが、「グロテスク」というのとは少し違う。もっと無機質で冷たい何かだ。惨たらしい死体を目にした時に覚えるおぞましさではなく、鋭利な刃物を前にしたとき、ガラスをツメで引っ掻いたときに感じる類の嫌悪感である。

ダリオ・アルジェントという人は、我々が金属やガラスの無機質な冷たさに対して本能的に覚える不快感を熟知しているように思える。もしこの破片が、先端が、自分の眼にでも突き刺さったらどうしよう、そういう神経質な不安を、そのまま映像化してしまう。彼の映画の世界では、ただの洗面所、鏡、窓ガラス、そういったものが全て何らかの「痛み」をもたらす不穏な物質に見えてくるのである。

サスペリア」ではその後もハリガネ地獄や眼に釘が刺さったまま生き返る死体など、無機質なおぞましさのオンパレードである。天井から落ちて来る蛆虫や自分の盲導犬に噛み殺されるピアニストなど、比較的「湿りけ」のあるシーンも捨てがたいが、魔女伝説をモチーフにした古典的で馬鹿馬鹿しいストーリーのこの映画がスタイリッシュにさえ映るのは、観るものの感性に強烈に突き刺さる、無機質な冷たさのゆえであろう。

川崎のイベントは、「ゴブリン」の生演奏付きで映画を見るという趣向であった。どうもこのバンドは権利関係的なあれこれがややこしいらしいのだが、あの劇伴がなければまた「サスペリア」という映画は成立しない。またやって欲しいと思うが、コロナで当分は難しいのかも知れない。

 

 

金属とガラス

去年の秋、川崎でやっていたイベントで久しぶりに「サスペリア」を観た時、かなり細かい部分まで覚えていたことに驚いた。最後に観たのは学生の頃だから、20年とか、そのくらい昔のはずだ。

つい最近に観た映画であっても、割とよく忘れる。「X MEN アポカリプス」などは、去年アマプラか何かで観たのを忘れてもう一回レンタルし、途中まで気づかなかった。まあ、ストーリーは覚えていなくても、断片的なシーンは記憶に残っていて、それで思い出したのだが。

サスペリア」もストーリーなどはあってないようなものだが、個々のシーンはよく覚えている。覚えているシーンは印象に残っているシーンであり、印象に残っているシーンとは、要するに自分の好きなシーンである。改めて思ったのだが、自分はこの悪趣味でスタイリッシュな映画がとても好きなのだった。

冒頭、スージー・バニヨンが空港に降り立つシーンから始まる。空港から出る時、開閉する自動ドアがアップになるのだが、ここは初めて観た時から何度も反芻したほど鮮明に記憶に焼き付いている。

自動ドアの、ガラスと金属の質感が凶々しいのだ。

この一瞬のシーンが、「サスペリア」という映画においてこの後起こることの全てを予告している。それは、ガラスや金属に対して人が生理的に抱く、抽象的な嫌悪感や恐怖感の具現化だ。

冒頭から、悪趣味で執拗な斬殺シーンの連続である。心臓にしつこく突き刺されるナイフが大写しになり、哀れな犠牲者の顔面に落下してきたガラスが突き刺さる。おぞましいが、「グロテスク」というのとは少し違う。もっと無機質で冷たい何かだ。惨たらしい死体を目にした時に覚えるおぞましさではなく、鋭利な刃物を前にしたとき、ガラスをツメで引っ掻いたときに感じる類の嫌悪感である。

ダリオ・アルジェントという人は、我々が金属やガラスの無機質な冷たさに対して本能的に覚える不快感を熟知しているように思える。もしこの破片が、先端が、自分の眼にでも突き刺さったらどうしよう、そういう神経質な不安を、そのまま映像化してしまう。彼の映画の世界では、ただの洗面所、鏡、窓ガラス、そういったものが全て何らかの「痛み」をもたらす不穏な物質に見えてくるのである。

サスペリア」ではその後もハリガネ地獄や眼に釘が刺さったまま生き返る死体など、無機質なおぞましさのオンパレードである。天井から落ちて来る蛆虫や自分の盲導犬に噛み殺されるピアニストなど、比較的「湿りけ」のあるシーンも捨てがたいが、魔女伝説をモチーフにした古典的で馬鹿馬鹿しいストーリーのこの映画がスタイリッシュにさえ映るのは、観るものの感性に強烈に突き刺さる、無機質な冷たさのゆえであろう。

川崎のイベントは、「ゴブリン」の生演奏付きで映画を見るという趣向であった。どうもこのバンドは権利関係的なあれこれがややこしいらしいのだが、あの劇伴がなければまた「サスペリア」という映画は成立しない。またやって欲しいと思うが、コロナで当分は難しいのかも知れない。

 

 

金属とガラス

去年の秋、川崎でやっていたイベントで久しぶりに「サスペリア」を観た時、かなり細かい部分まで覚えていたことに驚いた。最後に観たのは学生の頃だから、20年とか、そのくらい昔のはずだ。

つい最近に観た映画であっても、割とよく忘れる。「X MEN アポカリプス」などは、去年アマプラか何かで観たのを忘れてもう一回レンタルし、途中まで気づかなかった。まあ、ストーリーは覚えていなくても、断片的なシーンは記憶に残っていて、それで思い出したのだが。

サスペリア」もストーリーなどはあってないようなものだが、個々のシーンはよく覚えている。覚えているシーンは印象に残っているシーンであり、印象に残っているシーンとは、要するに自分の好きなシーンである。改めて思ったのだが、自分はこの悪趣味でスタイリッシュな映画がとても好きなのだった。

冒頭、スージー・バニヨンが空港に降り立つシーンから始まる。空港から出る時、開閉する自動ドアがアップになるのだが、ここは初めて観た時から何度も反芻したほど鮮明に記憶に焼き付いている。

自動ドアの、ガラスと金属の質感が凶々しいのだ。

この一瞬のシーンが、「サスペリア」という映画においてこの後起こることの全てを予告している。それは、ガラスや金属に対して人が生理的に抱く、抽象的な嫌悪感や恐怖感の具現化だ。

冒頭から、悪趣味で執拗な斬殺シーンの連続である。心臓にしつこく突き刺されるナイフが大写しになり、哀れな犠牲者の顔面に落下してきたガラスが突き刺さる。おぞましいが、「グロテスク」というのとは少し違う。もっと無機質で冷たい何かだ。惨たらしい死体を目にした時に覚えるおぞましさではなく、鋭利な刃物を前にしたとき、ガラスをツメで引っ掻いたときに感じる類の嫌悪感である。

ダリオ・アルジェントという人は、我々が金属やガラスの無機質な冷たさに対して本能的に覚える不快感を熟知しているように思える。もしこの破片が、先端が、自分の眼にでも突き刺さったらどうしよう、そういう神経質な不安を、そのまま映像化してしまう。彼の映画の世界では、ただの洗面所、鏡、窓ガラス、そういったものが全て何らかの「痛み」をもたらす不穏な物質に見えてくるのである。

サスペリア」ではその後もハリガネ地獄や眼に釘が刺さったまま生き返る死体など、無機質なおぞましさのオンパレードである。天井から落ちて来る蛆虫や自分の盲導犬に噛み殺されるピアニストなど、比較的「湿りけ」のあるシーンも捨てがたいが、魔女伝説をモチーフにした古典的で馬鹿馬鹿しいストーリーのこの映画がスタイリッシュにさえ映るのは、観るものの感性に強烈に突き刺さる、無機質な冷たさのゆえであろう。

川崎のイベントは、「ゴブリン」の生演奏付きで映画を見るという趣向であった。どうもこのバンドは権利関係的なあれこれがややこしいらしいのだが、あの劇伴がなければまた「サスペリア」という映画は成立しない。またやって欲しいと思うが、コロナで当分は難しいのかも知れない。

 

 

閉じた世界

数年前に「君の名は。」が流行った時、少し遅れて劇場まで足を運んだ。

退屈ではなかったが、二回見ようとも思わなかった。

それは映画の出来不出来と言うよりも、この映画の芯のようなものに対して共感できなかった、むしろ反感を覚えたということに起因する。

思春期の少年少女を主人公にした恋愛映画だから、自分がそれに近い年齢であればあるいはもう少し違った感想になったかも知れない。しかし、おそらくそうはならなかったとも思っている。

なぜか。

この映画は、東京を舞台にした恋愛映画ではなく、恋愛映画の体裁をとった東京の映画だからであり、更に言うなら、東京の魅力を伝えるための映画ではなく、東京で暮らす人間の優越感をくすぐって快楽を与えるための映画だからだ。

映画において、都市そのものが主題となることはままある。都市が、そこで暮らす人間の生活を規定する存在である以上、当然のことだ。

一方で、都市とは、物理的、社会的、経済的な実体を備えた存在であると同時に、映画や小説などのフィクションを通じて醸成されたイメージが幾重にも折り重なった、いわばイメージの集合体でもある。

その意味で、都市は、フィクショナルなイメージに対して先験的で超越的な何かではない。フィクションを通じて形づくられたイメージが更に新しいイメージとしての都市を構築していくという、果てしない再生産の産物である。

そして、イメージの広がりや密度を情報量と言い換えるなら、東京は、その圧倒的な情報量において、他の追随を許さない都市である。その情報量こそが、東京という都市での暮らしがもたらす快楽と、そこから得られる優越感を支えている。

しかしそれはまた、脈絡のない情報の洪水でもあり、誰かが整理をしなければ快楽にたどり着くことはできない。

新海誠という人はそうした感性に極めて優れており、凄まじい情報量をもつに至った東京という都市を、うまく整理し、言語化し、映像化して、一つの快楽装置に仕立て上げている。そしてそれはあくまでも他者に東京という情報を伝えるためではなく、自身が東京という情報から快楽を得るための装置なのである。

こうした閉じた感性による作品が、芸術として劣っているとは全く思わない。むしろ、もし自身がその閉じた世界の中に居場所を持ってさえいれば、この上なく優れた芸術作品として受け入れることができるだろう。

しかし、おそらくはその環の外側に置かれた身としては、なんとも言えない反感を、不快感を覚えるしかなかったということである。

 

 

金属とガラス

去年の秋、川崎でやっていたイベントで久しぶりに「サスペリア」を観た時、かなり細かい部分まで覚えていたことに驚いた。最後に観たのは学生の頃だから、20年とか、そのくらい昔のはずだ。

つい最近に観た映画であっても、割とよく忘れる。「X MEN アポカリプス」などは、去年アマプラか何かで観たのを忘れてもう一回レンタルし、途中まで気づかなかった。まあ、ストーリーは覚えていなくても、断片的なシーンは記憶に残っていて、それで思い出したのだが。

サスペリア」もストーリーなどはあってないようなものだが、個々のシーンはよく覚えている。覚えているシーンは印象に残っているシーンであり、印象に残っているシーンとは、要するに自分の好きなシーンである。改めて思ったのだが、自分はこの悪趣味でスタイリッシュな映画がとても好きなのだった。

冒頭、スージー・バニヨンが空港に降り立つシーンから始まる。空港から出る時、開閉する自動ドアがアップになるのだが、ここは初めて観た時から何度も反芻したほど鮮明に記憶に焼き付いている。

自動ドアの、ガラスと金属の質感が凶々しいのだ。

この一瞬のシーンが、「サスペリア」という映画においてこの後起こることの全てを予告している。それは、ガラスや金属に対して人が生理的に抱く、抽象的な嫌悪感や恐怖感の具現化だ。

冒頭から、悪趣味で執拗な斬殺シーンの連続である。心臓にしつこく突き刺されるナイフが大写しになり、哀れな犠牲者の顔面に落下してきたガラスが突き刺さる。おぞましいが、「グロテスク」というのとは少し違う。もっと無機質で冷たい何かだ。惨たらしい死体を目にした時に覚えるおぞましさではなく、鋭利な刃物を前にしたとき、ガラスをツメで引っ掻いたときに感じる類の嫌悪感である。

ダリオ・アルジェントという人は、我々が金属やガラスの無機質な冷たさに対して本能的に覚える不快感を熟知しているように思える。もしこの破片が、先端が、自分の眼にでも突き刺さったらどうしよう、そういう神経質な不安を、そのまま映像化してしまう。彼の映画の世界では、ただの洗面所、鏡、窓ガラス、そういったものが全て何らかの「痛み」をもたらす不穏な物質に見えてくるのである。

サスペリア」ではその後もハリガネ地獄や眼に釘が刺さったまま生き返る死体など、無機質なおぞましさのオンパレードである。天井から落ちて来る蛆虫や自分の盲導犬に噛み殺されるピアニストなど、比較的「湿りけ」のあるシーンも捨てがたいが、魔女伝説をモチーフにした古典的で馬鹿馬鹿しいストーリーのこの映画がスタイリッシュにさえ映るのは、観るものの感性に強烈に突き刺さる、無機質な冷たさのゆえであろう。

川崎のイベントは、「ゴブリン」の生演奏付きで映画を見るという趣向であった。どうもこのバンドは権利関係的なあれこれがややこしいらしいのだが、あの劇伴がなければまた「サスペリア」という映画は成立しない。またやって欲しいと思うが、コロナで当分は難しいのかも知れない。

 

 

餃子

道玄坂の上のラーメン屋で「梅しそ餃子」を頼んだのだが、しばらくしてふと気づくと店員が横に立っている。手には餃子の皿である。

曰く、「梅しそ餃子」と間違えて「肉汁餃子」を焼いてしまったので、今作り直している、出来るまで「肉汁餃子」を食べて待っていて欲しいとのこと。

そんなに餃子ばかり食べられないし、どうしても「梅しそ餃子」が食べたかったわけでもない。ただ何となく頼んだだけだ。

なので、もう「肉汁餃子」でいいですと言ったのだが、もう作り直し始めてるからどうあっても「梅しそ餃子」は出てくる、残してもいいから「肉汁餃子」を食べていてくれと譲らない。

もう食べるしかない。

「残してもいい」と言われても、勿体ないのでそうもできない。結局全部食べた。

なかなか美味しかったのでまた行こうと思う。

店の名前は忘れてしまったが。

 

 

 

 

年末年始

27日、銀座の蔦屋書店でやっていた「京都の美人画」店へ。服部しほりという若い画家がよかった。

その後、銀座線の渋谷駅が最終営業日ということで、特に用事もないのに渋谷駅に。カメラを持った撮り鉄のような人々が大量発生、電車や改札の写真など撮っている。

記念のスタンプを押すために30分近く並んでしまった。

渋谷駅には特に思い入れはないが、80年も続いたものが消える瞬間に立ち会ってみたい、という思いがあった。渋谷にほぼ縁のない人生を送ってきた自分のような人間が、最後の日にだけ立ち会う。何とも奇妙な邂逅だ。