閉じた世界
数年前に「君の名は。」が流行った時、少し遅れて劇場まで足を運んだ。
退屈ではなかったが、二回見ようとも思わなかった。
それは映画の出来不出来と言うよりも、この映画の芯のようなものに対して共感できなかった、むしろ反感を覚えたということに起因する。
思春期の少年少女を主人公にした恋愛映画だから、自分がそれに近い年齢であればあるいはもう少し違った感想になったかも知れない。しかし、おそらくそうはならなかったとも思っている。
なぜか。
この映画は、東京を舞台にした恋愛映画ではなく、恋愛映画の体裁をとった東京の映画だからであり、更に言うなら、東京の魅力を伝えるための映画ではなく、東京で暮らす人間の優越感をくすぐって快楽を与えるための映画だからだ。
映画において、都市そのものが主題となることはままある。都市が、そこで暮らす人間の生活を規定する存在である以上、当然のことだ。
一方で、都市とは、物理的、社会的、経済的な実体を備えた存在であると同時に、映画や小説などのフィクションを通じて醸成されたイメージが幾重にも折り重なった、いわばイメージの集合体でもある。
その意味で、都市は、フィクショナルなイメージに対して先験的で超越的な何かではない。フィクションを通じて形づくられたイメージが更に新しいイメージとしての都市を構築していくという、果てしない再生産の産物である。
そして、イメージの広がりや密度を情報量と言い換えるなら、東京は、その圧倒的な情報量において、他の追随を許さない都市である。その情報量こそが、東京という都市での暮らしがもたらす快楽と、そこから得られる優越感を支えている。
しかしそれはまた、脈絡のない情報の洪水でもあり、誰かが整理をしなければ快楽にたどり着くことはできない。
新海誠という人はそうした感性に極めて優れており、凄まじい情報量をもつに至った東京という都市を、うまく整理し、言語化し、映像化して、一つの快楽装置に仕立て上げている。そしてそれはあくまでも他者に東京という情報を伝えるためではなく、自身が東京という情報から快楽を得るための装置なのである。
こうした閉じた感性による作品が、芸術として劣っているとは全く思わない。むしろ、もし自身がその閉じた世界の中に居場所を持ってさえいれば、この上なく優れた芸術作品として受け入れることができるだろう。
しかし、おそらくはその環の外側に置かれた身としては、なんとも言えない反感を、不快感を覚えるしかなかったということである。