no is e

この世界のすべては、雑音で出来ている。

オープンワールド その1

我々が子供のころ、ゲームが「リアル」になることは、そのまま「進化」を意味した。
ファミコンスーパーファミコンのドット絵の範囲内ではあったが、キャラクターや背景がより緻密に書き込まれ、ゲームの世界を構成する要素の物量が増し、行動の選択肢が増える。
その度にゲームはより「リアル」になった。
そうした進化の果てに、我々は何を夢見ていたか?
いつかゲームの中に、我々の暮らす現実と見紛う密度の世界が構築され、実写と同様のキャラクターを自在に操作し、思うがままに冒険することができる。そんな時代が来るに違いない。そんな風にワクワクしていたものだった。
今、ある種のゲームはそんなかつての夢に近づきつつある。とりわけ「オープンワールド」と呼ばれるタイプのゲームのいくつかは、実際にその世界で生きているかのような感覚を与えてくれる。
確かにこれは子供のころに夢見ていたものだ。少なくとも、限りなくそれに近いものではある。そして実際に、こうしたゲームは楽しいし、ワクワクさせてくれる。
しかし、夢が現実として手の届くところにやってきた時にしばしばそうであるように、憧れとして遠くから見ていた時には気づかなかった綻びもまた、見え始める。この綻びをうまくあしらうことが出来ないと、そのゲームはたちどころに退屈なものに成り果ててしまう。
よくできたオープンワールドのゲームは、そうした「退屈な現実」との戦いの産物だと言ってもいい。いくつかのゲームを例に、この点について考えてみよう。