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この世界のすべては、雑音で出来ている。

代々木上原

代々木公園よりもさらに一駅西、千代田線の終点である。

↓こういう動画があったものだから、どういう街なのかと行ってみたが、とりたてて何があるわけではない。

https://twitter.com/ayasa_ito/status/1051692695503028225?s=21

 

ただ、東京以外の都市ではほぼ消滅してしまった個人商店や、やはり他では廃墟と化してしまったような古い街並みが、まだ「街」として生きている。そんなところだ。

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東京にはこういう場所が多い。地方の都市がまだ辿り着いてはいない未来を具現化した街が存在すると同時に、それにぶら下がるようにして、他ではとうに滅び去ってしまった過去がほんの僅かな距離で同居している。

代々木上原という街も、この街にしかない魅力を具備しているというよりも、こうした魅力を持った街がもう東京以外では成立し得ないということの方がより正しい理解であるように思える。

増え続ける人口は当然都心部だけでは吸収しきれず、少し離れた古い街にも人は溢れてくる。彼らは昔ながらの魅力を再発見し、新たな活力を吹き込み、そして街は生まれ変わっていく。

おそらく、かつての日本では、こうしたサイクルが多くの場所で成立していたのだろう。しかし、今それが可能なのは東京だけだ。

本当に失われてしまったもの、完全に忘れられてしまったものに、我々は郷愁を感じることは出来ない。それは既に、「過去」としてさえ存在してはいないからだ。

いま我々は、かつてなかったようなスピードで過去を失っている。

X-MEN ダーク・フェニックス

アベンジャーズに比べてX-MENは人気がないらしい。というか、シリーズを重ねるごとに前者が上がり目に、後者が落ち目になっていったようだ。

その理由はなんとなく分かる。X-MENのストーリーは大体暗く、爽快感はなく、ラストに救いがない。最新作の「ダーク・フェニックス」もまさにそんなシリーズの特徴を体現するような作品だった。

何よりも、レイヴンがあっさりと退場してしまうのには驚いた。それも、さしてドラマチックとは言えないシーンで。ジーン・グレイの運命は仕方がないものなのかも知れないが、心の片隅でもっと甘い結末を望んでいたことは事実だ。

そうしたストーリー上の要因だけではないのだろうが、アメリカでの興行成績は散々だったらしい。批評家の評判も芳しくなかったようだ。

それでも、個人的にはこの作品が気に入っている。巷間言われているようにシリーズの(ひとまずの)区切りとなるにふさわしい作品かどうかは何とも言えない。しかし、自分がX-MENに望んでいるもの(葛藤、運命的な重荷を背負った者の苦悩、負の感情とその克服)は大体あったし、よけいなものはほとんどなかった。そして、ラストのチェスのシーンについてだけ言えば、当面の幕引きにふさわしいものであったと言える。

わざわざ2時間という時間と2,000円の対価を払って登場人物たちの葛藤や苦悩に付き合うのは、多少の覚悟がいる。疲れているときは特にそんな選択はしたくない。

しかし、苦い料理の乗った皿も並べておいてくれないと、食卓は味気ないものになってしまうだろう。多少無理をしてでも時々苦々しい料理を口にする人生の方が、自分には好ましいもののように思える。X-MENは、自分にとってちょうどよい苦みを与えてくれたのだ。願わくば、そんなテイストを残したままでどうにかシリーズに存続して欲しい。

 

東京ひとりめし

 食事というのは極めて社会的な行為だ。

 「社会的」というのは「他人と関わる」くらいの意味だが、それは往々にして、というか本質的に、合理性や機能性の外にはみ出す。

生きていくだけなら、水と、最低限の栄養を取るだけで事足りるのであり、美味しいものを食べる必要はないし、食事の写真をいちいちS N Sに上げる必要もない。何より、一人きりで食事をとってもなんの問題もない。

にも関わらず我々は、食事に際して、うんざりするほど余計なことをする。

食事という行為は、不合理で余計なもののかたまりだ。

しかし、それは致し方ないことなのかも知れない。いつ、何を、どこで、誰と食べるかについて、どんな余計なことをやってのけるかということが、その人間の人生に大きな影響を与えるからだ。

それ故か、一人で食事を摂るというのは、意外な困難を伴う。世の中は、一人で食事する人間のためには出来ていないのだ。

もちろん「お一人さま」向きの店はたくさんある。しかし、それは安くて大衆的な店がほとんどだ。気の利いた店になるほど、魅力的な店になるほど、一人では入りづらくなるのが世の常である。

東京という街はまだ「お一人さま」に優しいが、やはり壁は感じざるを得ない。その中で、いかに一人きりの食事を充実させていくか?一人でも美味しいものを食べたいという欲望を追求していくか?自分なりに戦ってみたい。

 

 

 

虎ノ門

虎ノ門という地名は何故虎ノ門なのかが疑問だった。

寅の方角、すなわち東北東にあるなら分かるが、虎ノ門江戸城の南側だ。気になって調べてみると、この「虎」は白虎を指すという。

四方を守護する四神、すなわち北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎から、城の西を守る門として「虎ノ門」となった。要するに平安京朱雀門と同じ発想ということだ。

しかし、これも腑に落ちない。虎ノ門江戸城の西ではなく南だ。南西と言えなくはないだろうが、それにしても不自然に思える。

さらに調べると、面白い説に行き当たった。江戸の地を、強引に四神相応に当てはめた結果だというものだ。

四神相応とは、北に玄武を宿す山、東に青龍を宿す川、南に朱雀を宿す澤、西に白虎を宿す道、を擁することを言い、こうした土地は栄えると考えられた。

例えば京都は、船岡山、鴨川、巨椋池山陰道をそれぞれ四方に抱いていることで、四神相応の地とされたという。

江戸をこの考え方に当てはめた時、何が玄武と見立てられたか。この説では、それは富士山だったとする。

富士山は江戸の北ではなく、遥か西方にある。これを玄武とすると、他の三方も全て方角がずれることにはなるが、時計回りに平川、東京湾、そして東海道と要件は揃う。江戸城から東海道に繋がる門は、まさしく虎ノ門の名にふさわしいことになる。

この説が正しいかどうかは知らない(虎ノ門の由来には諸説あるようだ)が、京都から来た人間にとっては腑に落ちるところもある。

京都と比べた時、東京の街は、「歪んでいる」ように感じる。道がまっすぐ伸びておらず、正しく東西南北を向いてもいない。皇居やその周辺の街ですら、「斜め」に作られている。

京都や奈良のように、定規で引いたように作られた街並みはむしろ特殊ではあるだろう。しかしそれにしてももう少し……と思っていたが、こう考えれば理解できる。

東京の街は、はじめから宇宙そのものが「まっすぐ」ではなく「歪んで」いるのだ。通常の東西南北ではなく、その独自の秩序の方に物差しを合わせれば、この街も京都のように理路整然とした街並みに見えるかも知れない。

 

 

 

 

 

オープンワールド その4

例えば、RPGの中でいつも行なっていることを現実世界で同じようにやろうとすればどうなるか、想像してみよう。
一つの町から隣の町に行くには、かなりの時間を費やさなくてはならない。歩きならなおさらだ。
走れば疲れるし、重いものを持ち過ぎれば走ることもままならない。
次にどこに行けばいいか、何をすればよいか。何が必要なもので、何が役に立たないお荷物か。こんなことを懇切丁寧に教えてくれる人も存在しない。
与えられた課題や試練が必ず克服可能だとは限らないし、乗り越えた先に然るべき報酬が待ち受けている保証もない。
そして何より、自分自身の歩んだ道のりが、積み重ねた時間が、語るに値する物語へと昇華することなどほとんど期待はできないのだ。
もちろん、よく出来たゲームなら、こんな現実の退屈さにいつも幻滅させられるわけではない。
しかし、とりわけ出来の悪いオープンワールドのゲームの中には、「退屈な現実」の力に抗いきれず、その自由さや広大な世界の魅力を十分に発揮できていないものも、まま見受けられるのも事実だ。
こうした作品においては、煩わしいことだらけのだだっぴろい世界の中で、何をすればいいかも分からずにただ途方に暮れるしかない。
かつて夢見たような「リアル」なゲームであるにも関わらず、かつて期待したほどには面白くはない−こんなゲームに出会うことで、我々は嫌でも思い知らされる。ゲームを「現実」に近づけることと「面白さ」を両立させることは、とても難しいのだと。

それでも我々は「リアル」なゲームを待ち望んでいるし、より「リアル」に、かつ「面白く」進化したゲームというのは、やはり生み出され続けているし、そして我々はその進化にワクワクさせられている。

「現実」のように構築された世界で、ゲームだけが可能にする「面白さ」を追求するー困難な命題だが、例えば「ウィッチャー3」と「ゼルダの伝説」は、それぞれ異なるアプローチでそれを達成しているように思われる。まだ誰も試していない、全く新たなアプローチがあるかも知れない。

我々としては、かつて夢見ていたゲームに巡り会えたと感じることのできるその日まで、引き続きワクワクしていたいと思う。

 

 

 

オープンワールド その3

例えば2011年に発売された「スカイリム」は、広大に広がるフィールドと細部まで作り込まれた世界の圧倒的な物量、そしてそれが可能にする抜きん出た自由度によって特徴づけられたゲームだ。

スカイリムにおいて、世界を形づくっているのはもはや無味乾燥な記号ではない。
森や山はただ見えているだけの背景ではなく、分け入ったり登ったり、思いのままにに探索することができる。
それだけでなく、プレイヤーはあらゆる意味で自由だ。
一般的なゲームにおいて「お約束」として存在するシステム上の禁止事項−NPCを攻撃したり、店の商品を盗んだりといった−からは解き放たれているし、攻略の順序についての制約も極めて緩やかなものとなっている。

スカイリム以降、家庭用のゲーム機でも続々と登場することとなる「オープンワールド」と呼ばれる形式のゲームは、程度の差こそあれ、共通してこうした特徴を備えている。

要するに、極めて「リアル」であるということだ。

もちろん、それは「現実」そのものではない。

しかし少なくとも、限定されたフィールドの内部で、与えられたコマンドの中から行動を選択するしかなかったかつてのゲームと比較すると、はるかに「現実」に近いところにある。

これはかつて我々が望んでいたことだ。

しかし同時に、ゲームをやっている我々がいつも忘れていた−忘れるように努めていた−あることを思い出させてくれたようにも思われる。

「現実」は往々にして面倒くさく、時には非常に厄介だということを。

 

オープンワールド その2

例えば「ドラゴンクエスト」においては、世界はそっけない「記号」で構成されていた。
街も城も、森も山も、すれ違う人々も、全てひとマスのドット絵。味気ないが、快適でもある。お城から隣の街への移動は、ものの数秒もあれば足りるのだ。今日のゲームと比べると何もかもがシンプルで、単純だった。
もっとも、こうした単純さは「リアル」の対極にある。現実と同じような世界を思うがままに駆け回る−そうした経験からは、大きな隔たりがあるのだ。
当時においても、攻略の手順が特に限定されておらず、ある程度自由に世界を探索できるゲームがなかったわけではない。「ドラゴンクエスト」自体、必ずしも決まった手順を踏む必要はなかった。いきなりメルキドドムドーラに行くこともできたし、ストーリーそっちのけで洞窟にこもっていてもよかった。
けれども、記号の組み合わせに過ぎない世界の「自由」には、自ずと限界がある。
ゲーム中のあらゆる存在には、極めて限定的な「意味」しか与えられておらず、プレイヤーは数少ない選択肢の中でしか行動することはできなかった。
森や山は、単なる背景であるか、そうでなければ、例えばプレイヤーの通行を妨げる障害物といった、単純な意味を与えられているだけの存在だった。森の木々に登ってみたり、山でキノコを採ったりすることは、プレイヤーの行動の選択肢としてー許可された「コマンド」としてー特別に用意されている場合にのみ可能であり、自由には行えるわけではない。それが、現実の世界ではたやすくなし得ることであったとしても。
これはどう見ても「リアル」でない。我々の暮らす世界と違いすぎる。現実というものは、もっと遥かに多様で数えきれない選択肢が広がっているのだから。
もちろん、ゲームが現実と違うことは分かっていた。
と同時に、こんな風に問いかけてもいた。
−そんなゲームがいつか可能になるのだろうか?
現実と同じ広がりを持った虚構の世界を旅する、そんなことが出来るゲームが?
このかつての夢は、厳密には未だ実現してはいないのかも知れない。しかし、それに大きく近づけてくれたゲームなら、この10年ほどの間にいくつか登場したように思える。